明堂について②―その全体像(仮)と研究の方向性

前回(明堂について―ツボの原典と呼ぶべきものとその復元)からの続きです。

個々のツボの主治症の復元に入る前に、『明堂』の全体像と臨床に活かすための研究の方向性について少し説明させてください。

目次

『明堂』の全体像(仮)

『明堂』の主治症がどういった方向性のもとに書かれているか、仮の結論として先に示しておきます。各主治症を見直す過程で、変わることはあり得ます。

『明堂』の全体として以下のような箇条書きにまとめることができると考えています。

  • 熱病(感染症)に伴った症状が主である。
  • どのツボを使うかは、どこの症状なのかによって決まる傾向がある。
  • 頭部・体幹部のツボならば、そのツボのある局所、近隣の症状に対して用いられる。
  • 四肢のツボ、とくに肘から遠位、膝から遠位のいわゆる要穴(本輸穴・絡穴)は、その局所の症状だけでなく、遠隔の症状にも用いられる。その遠隔の場所は、経によって異なる(その遠隔とのつながりを経脈あるいは絡脈という)。
  • 臓腑経絡説には基づいていない。それが普及するより前の段階。
  • 陰経ならば確かに臓と関係しているが、手陰経は肺と心がはっきりと区別されていない。足陰経は足太陰経なら消化器症状で脾との関係が言えるが、足厥陰経は泌尿生殖器症状、足少陰経は全体状態が悪いものに用いており、それぞれ肝と腎が関係しているとは言いがたい。そもそも肝と腎をどう考えるかという問題があるか。
  • 陽経と腑はまったく関係なし。下合穴は腑と関係あり。
  • 手陽明経は首から上の前側の症状、手少陽経は首から上の横側の症状、手太陽経は首から上の後側の症状に使われる。
  • 足陽明経は心(神)と面等の身体の前側の症状、足少陽経は脇等の身体の横側の症状、足太陽経は頭項腰等の身体の後側の症状に使われる。

臨床に活かすための研究の方向性

『明堂』研究に大きな影響を与えた論文として、藤木俊郎の「明堂経の考察」があります1

この論文で藤木は、

”鍼灸医学にとって、黄帝鍼経(霊枢)が書かれた後、二つの道があること、そのいずれを選ぶかという問題が暗々裏に提起されていた”

と書き始めています。その二つの道というのは、

”「脈診によって変動のある経脈の陰陽虚実が解るから、その虚実に従って補瀉を行う」という方針と、「経脈のどれに変動があるかが脈でよく解らない時は、症状から判断してその経脈を決め、それを治療する」という二つの方針”

”前者の方針は難経によって進められた”

”一方、症状から判断して治療するという方向には・・・観察と経験の蓄積以外に発展はない。・・・この経験の蓄積を穴の主治症を中心にまとめたものが、明堂という名を冠して出現する”

と述べています。

これを篠原孝市は、”現在の日本の経絡治療とそれへの藤木自身の批判を、そのまま中国古代の鍼灸の流れに投影し、〈陰陽五行論に基づく経脈による治療〉と〈兪穴の主治による経験治療〉を対立的に描いたもの”とまとめており2、”1940年代以来、日本の復興伝統鍼灸の主流である経絡治療を相対化しようとする意図が含まれていることを忘れてはならない”と指摘しています3

経絡治療は前者の方針、『難経』の条文の一部(六十九難、時に七十五難や六十八難)に基づいた治療です。

それに対して藤木俊郎の師である丸山昌朗は、経脈を重視する点では経絡治療派と変わらなかったが、陰陽五行説、特に五行説には全く承服できなかったようです3。経絡治療のなかで五行説の影響が最も強い分野は、選経選穴です。篠原孝市は、”丸山門下の藤木や島田隆司が志向したのは、経絡治療の診断治療体系を、五行説と無縁の兪穴主治治療へと変えようとすることであった。あけすけにいってしまえば、『難経』に基づく手足の選経選穴理論を、『明堂』以来の主治による全身の兪穴の運用に代えようとしたのである” としています3

藤木俊郎、島田隆司は後者の方針、『明堂』に基づく兪穴の主治による治療を採りました。

それに対して、篠原孝市は、”こうした藤木・島田の志向に同意しない” とし、”『明堂』の主治の臨床化は、これまで経絡治療が行ってきた陰陽五行説に基づく病態把握や、親試実験を旨とする選経選穴論の上に達成されなくてはならない” と考えています。これはそもそも『明堂』の臨床応用に関して、”〈現時点で行われている臨床〉を前提として考えられるべきものである” と考えており3、篠原孝市自身が経絡治療で臨床をしているからです。

以上のことに対して、僕自身がどう考えるか。

僕自身は経絡治療で臨床はしていません。”〈現時点で行われている臨床〉を前提” というのは、要するに、各人が自分の利用しやすいように解釈して臨床に応用しましょう、と捉えることができます。まぁ僕自身、患者さんが良くなるのであれば、良識が許す限り、使えるものは使ったらいいと思っているので、臨床的にはそれでいいとは思います。

しかしながら、できる限り当時の枠組み、考えがどうだったかを僕は知りたいと思っています。

どうしても自分の経験による解釈、想像が入ってしまうと思いますが、当時の人がこんな風に考えて日々臨床に臨んでいたのではないか、ということを示したいです。

したがって経絡治療に沿った解釈にはなりません。二つの方針で言えば、後者の方針、藤木俊郎、島田隆司の方針になります。上記の『明堂』の全体像(仮)でまとめたように、『明堂』は臓腑経絡論説に基づいておらず、五行説の性格は弱いと考えています。また経脈あるいは絡脈といった経絡といった考えは、四肢、とくに肘から遠位、膝から遠位にのみ当てはまるものと考えています。

ツボの記載順序に関して、『類成』『外台』が経脈別、『甲乙』『千金』『医心』が部位別になっていることに対して、藤木俊郎は、”甲乙や医心方、千金などの穴の記載の順序は、何を根拠にしていたのだろうか”と問いを立てて、その答えとして、”穴についての書物の編集は、記憶や使用上の便利さに流されて、経脈が軽視されて行った傾向がうかがえる” と述べています1

それは違うと考えます。記憶や使用上の便利さといった理由ではなく、そもそも経脈あるいは絡脈は、手足の本輸穴あるいは絡穴と遠隔のつながりのことを指していた考えであり、頭部や体幹部には経脈、絡脈の考えを当てはめてはいなかったからです。

頭部・体幹部の主治症の内容と四肢の主治症の内容とを比較することで、それがわかるのではないかと思います。

おわりに

次回からは個々のツボを頭部からみていきたいと思いますが、上記の『明堂』の全体像(仮)が妥当かどうかを示すために、ツボの記載順序は、『甲乙』の頭部・体幹部は部位別、四肢は経脈別に従います。

復元に用いた底本は明抄本『鍼灸甲乙経』(東洋医学研究会, 1981年)4、宋版『外台秘要方』(東洋医学研究会, 1981年)、半井家本『医心方』(オリエント出版, 1991年)です。黄龍祥『黄帝明堂経輯校』(中国医薬科技出版社, 1987年)を大いに参考にしつつ、適宜、医統正脈本『鍼灸甲乙経』(人民衛生出版社, 1956年)、正統本『鍼灸甲乙経』(東洋医学研究会, 1981年)5、顧従徳本『素問』(日本内経医学会, 2004年)、明刊無名氏本『霊枢』(日本内経医学会, 1999年)、江戸医学館倣宋版『備急千金要方』(人民衛生出版社, 1955年)、仁和寺本『黄帝内経明堂』(東洋医学研究会, 1981年)、『医学綱目』内閣文庫蔵を参照します。黄龍祥復元本にしたがって他の文献も適宜参照すると思います。また解釈するにあたっては、日本内経医学会編『黄帝内経明堂』(北里研究所東医研医史学研究部, 1999年)、桑原陽二『経穴学の古代体系 明堂経を復元する』(績文堂, 1991年)、桑原陽二『古代経穴学の活用 黄帝明堂経の現代語訳』(績文堂, 2021年)、張燦玾、徐国仟編『鍼灸甲乙経校註(下冊)』(人民衛生出版社, 2014年)、年吉康雄『完訳 鍼灸甲乙経(下巻)』(三和書籍, 2016年)などを参考にします。


1)藤木俊郎(1979)「明堂経の考察」『鍼灸医学源流考』績文堂, pp.217-229, 初出『経絡治療』30号, 1972年7月
2)篠原孝市(2019)「臨床に活かす古典 No91 『明堂』その1」『医道の日本』2019年12月号
3)篠原孝市(2020)「臨床に活かす古典 No94 『明堂』その4」『医道の日本』2020年5月号
4)明抄本と医統正脈本とどちらをベースにすべきかどうか、正直僕にはわかりませんが、僕が研修を受けた愛媛東医研にしたがって、ここでは明抄本を底本とします。適宜、医統本を参照します。
5)正統本は巻1~3しか残存していない。

以上の内容は、ただの趣味です。学者としての訓練・教育・指導等は受けてはいませんので、多々誤りはあるかと思いますが、どうぞお付き合いください。誤り等ご指摘いただければ幸いです。

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