背中のツボ⑤―膈兪および膈兪と膏肓について

膈兪

背中のツボ、5回目です。今回は膈兪です。

背中のツボ①―大椎・陶道・身柱・神道・至陽・筋縮
背中のツボ②―脊中・懸枢・命門・腰兪・長強
背中のツボ③―大杼・風門
背中のツボ④―肺兪・心兪

目次

背自第一椎両傍俠脊各一寸五分至下節凡四十二穴第八

膈兪

各書の主治条文

医心主治条文
 欬鬲寒食飲不下胷痛気少脇腹痛振寒欠伸周痺

甲乙主治条文
 悽悽振寒数欠伸●鬲輸主之(巻之七 六経受病発傷寒熱病第一中)
 痓●取𦃞[1]会及百会天柱鬲輸上関光明主之(巻之七 太陽中風感於寒湿発痓第四)
 欬而嘔鬲寒食不下寒熱皮肉膚痛少気不得臥胸満支両脇鬲上兢兢脇痛腹䐜胸管暴痛上気肩背寒痛汗不出喉痺中痛積聚默然嗜卧怠堕不欲動身常温湿[2]〈一作愠〉心痛無可揺者●鬲輸[3]之(巻之八 五臟伝病発寒熱第一下)
 大風汗出●膈兪主之(巻之十 陽受病発風第二下)
 癲疾●膈腧及肝腧主之(巻之十一 陽厥大驚発狂癇第二)
 癲疾多言耳鳴口僻頰腫實則聾齲喉痺不能言歯痛鼻鼽衂虚則痺膈兪[4]●偏歴主之(巻之十一 陽厥大驚発狂癇第二)

外台主治条文
 悽悽振寒数欠伸欬而嘔膈寒食飲不下寒熱皮肉骨痛少気不得臥胸満支両脅膈上兢兢脅痛腹䐜胃管暴痛上気肩背寒痛汗不出喉痺腹中痛積聚嘿嘿然嗜卧怠堕不欲動身常湿心痛無可揺者周痺身皆痛無可大汗出痓大風汗出癲狂

[1] 頭注:他本𦃞作顖
[2] 医統本「身常湿湿」
[3] 原文:脾輸 『医心』、『外台』、『千金』との比較、『医学綱目』巻六の『甲乙』引用文から、「鬲輸」に改める。
[4] 『外台』及び『霊枢』10経脈篇“手陽明之別名偏歴・・・實則齲聾虚則齒寒痺隔取之所別也”より、「痺膈兪」ではなく「痺膈」。「兪」の字は衍文。

主治条文の比較

医心欬  鬲寒食飲不下    胷痛気少            脇 腹    痛
                        振寒 欠伸周痺
甲乙欬而嘔鬲寒食 不下寒熱皮肉膚痛少気不得臥胸満支両脇鬲上兢兢脇痛腹䐜胸管暴痛上気肩背寒痛汗不出喉痺 中痛積聚默 然嗜卧怠堕不欲動身常温湿心痛無可揺者悽悽振寒数欠伸          痓大風汗出癲疾
外台欬而嘔膈寒食飲不下寒熱皮肉骨痛少気不得臥胸満支両脅膈上兢兢脅痛腹䐜胃管暴痛上気肩背寒痛汗不出喉痺腹中痛積聚嘿嘿然嗜卧怠堕不欲動身常 湿心痛無可揺者悽悽振寒数欠伸周痺身皆痛無可大汗出痓大風汗出癲狂
復元欬而嘔鬲寒食飲不下寒熱皮肉少気不得臥胸満支両脇鬲上兢兢脇痛腹䐜胃管暴痛上気肩背寒痛汗不出喉痺腹中痛積聚嘿嘿然嗜卧怠堕不欲動身常 湿心痛無可揺者悽悽振寒数欠伸周痺身皆痛無可大汗出痓大風汗出癲狂
  • 骨:『外台』を採ります。『千金』巻三十熱病第五に「膈輸中府主寒熱皮肉骨痛少気不得卧支満」とあり。
  • 少気:『甲乙』、『外台』、『千金』を採ります。
  • 胃管:『外台』を採ります。『医学綱目』巻六の『甲乙』引用文は「胃脘」。
  • 嘿嘿然:『外台』、『医学綱目』巻六の『甲乙』引用文を採ります。
  • 湿:『外台』に従います。『千金』巻三十熱病第五に「膈輸主嗜臥怠惰不欲動揺身當湿不能食」とあり。「當」は「常」の誤りと思われます。
  • 身皆痛無可大汗出:『外台』に従って、「・・・汗出」まで採ります。
  • 癲狂:『外台』、『医学綱目』巻十一の『甲乙』引用文を採ります。

単位条文化

①欬而嘔、鬲寒、食飲不下。

②寒熱、皮肉骨痛、少気不得臥、胸満支両脇、鬲上兢兢、脇痛腹䐜、胃管暴痛、上気、肩背寒痛、汗不出、喉痺、腹中痛、積聚、嘿嘿然嗜臥、怠堕不欲動、身常湿、心痛無可揺者。

③悽悽振寒、数欠伸。

④周痺、身皆痛、無可大汗出。

⑤痓。

⑥大風汗出。

⑦癲狂。

①②は『甲乙』では巻之八 五臟伝病発寒熱第一下に記載され、ひとつの条文ですが、ここでは二つに分けて考えてみました。

①は鬲に問題が生じた時の症状を端的に表した条文と解釈しました。鬲=横隔膜が寒により機能低下を起こした結果、欬すると嘔吐、食飲不下の症状が生じています。「寒」となっていますが、『素問』『霊枢』には「隔塞閉絶、上下不通」(通評虚実論)、「食飲不下、鬲塞不通」(風論)、「膈咽不通、食飲不下」(邪気蔵府病形)、「飲食不下、膈塞不通」(四時気)などの記載が見られ、「寒」は「塞」の間違いかもしれません。鬲に問題が生じた結果、横隔膜を貫く食道の部分が塞がり、嘔吐、食飲不下の症状が出ていると当時の人は考えていたと思われます。

②はいろいろ考えましたが、あくまでひとつの条文として解釈したならば、心不全の状態に、外邪の侵襲(感染症)によってさらに弱った状態になっていると考えました。感染によって悪寒発熱、体中の痛み(皮肉骨痛)、咳(上気)、肩背部の冷え(肩背寒痛)、咽の痛み(喉痺)などがあります。心不全のために横になると息切れ(少気不得臥)、胸脇部のつかえや腹滿(胸満支両脇・鬲上兢兢・脇痛腹䐜)、だるさ(嘿嘿然嗜臥、怠堕不欲動)、むくみ(身常湿)、胸痛(胃管暴痛・心痛)などが生じています。

「鬲上兢兢」は胸脇部のつかえが強いこと。『集韻』巻之四 蒸第十六「兢、兢兢堅彊皃」とあり。

「上気」を咳と解釈しました。嘔吐もありえますが、『明堂』では「上気」はほぼ「欬」とセットになっていることが多く、「欬上気」あるいは「欬逆上気」の略形と考えます。

「胃管暴痛」を消化器系の症状ではなく、心臓の影響による心下部の痛みとも考えられます。

「腹中痛、積聚」は、循環不全により消化管に血液がたまり、痛み、腫れが生じていると思われます。こうした循環不全により、肺、肝臓、胃腸にうっ血が生じているならば、①のような症状が出てもおかしくありません。①の鬲の問題は、心不全によるものと考えることもできます。

③は『甲乙』巻之七 六経受病発傷寒熱病第一中に置かれています。外邪の侵襲によるもの。悪寒がひどく、あくびが出ていることから、脳にも影響が出ていると考えられます。

④は『甲乙』に記載がありません。「周痺身皆痛」は、②のような「皮肉骨痛」と解釈し、感染、発熱による体中の痛みと考えられます。ただし、衰弱が激しいためか、「無可大汗出」と発汗を戒めています。

⑤はひきつけ、痙攣。「痓」は「痙」と同じ意味。

⑥はただの「風」ではなく、「大風」であることから、重症と考えられます。『素問』長刺節論(55)には「病大風、骨節重、鬚眉墮、名曰大風」とあり。

⑦は精神異常。おそらく感染により脳炎あるいは髄膜炎が生じ、その後遺症なり影響によるものか。漢方用語大辞典(創医会学術部編 第十版)によれば、「癲は抑鬱状態・無感情・沈黙性痴呆・言語錯乱・飢飽感のないもの、甚だしい場合はこわばって倒れ直視するなど」、「狂は興奮状態、さわがしく、衣被をきらい、人を打ったりののしったり、絶えず歌笑し、怒り、甚だしい場合は垣を越えたり、屋根に登ったりする」。癲が陰あるいは虚、狂が陽あるいは実といわれます。

参考『霊枢』癲狂(22)「癲疾始生、先不楽、頭重痛、視挙目赤、甚作極、已而煩心・・・癲疾始作、而引口、啼呼喘悸者・・・癲疾始作、先反僵、因而脊痛・・・骨癲疾者、顑歯諸腧分肉皆満、而骨居、汗出煩悗・・・筋癲疾者、身倦攣急大・・・脈癲疾者、暴仆、四肢之脈、皆脹而縱・・・癲疾者、疾発如狂者、死不治・・・狂始生、先自悲也、喜忘苦怒善恐者、得之憂飢・・・狂始発、少臥不飢、自高賢也、自辯智也、自尊貴也、善罵詈、日夜不休・・・狂言驚善笑、好歌楽、妄行不休者、得之大恐・・・狂目妄見、耳妄聞、善呼者、少気之所生也・・・狂者多食、善見鬼神、善笑而不発于外者、得之有所大喜」

以上①から⑦とみてきましたが、膈兪の主治条文にある症状は重症です。とくに②は全身状態が悪いことがわかります。

膏肓と膈兪についての試論

膈兪の主治症が重症なのは、膏肓の位置と関係しているのではないかと勝手に思っています。

「病膏肓に入る」

「病膏肓に入る」という諺があります。病が重くなり、治る見込みのない状態をいう諺ですが、これは『春秋左氏伝』成公十年の故事[1]に由来します。

その昔に晋候が病気になって夢を見た。背の高い幽霊が髪をざんばらに乱して地に引きずり、胸を叩いて踊りながら、「わたしの子孫を殺したのは不義である。私は、天帝から仇を討つお許しを得た」と言って、大門と寝門とを壊して入ってきた。晋候は恐れ、室内に逃げ込むと、さらに戸を壊す、という夢だった。晋候は、桑田の巫を呼び寄せたところ、巫は夢の内容を言い当てた。晋候は、「どんなことになるか」とたずねると、巫は「今年の新麦を食べずに死ぬであろう」と答えた。
やがて晋候の病が重くなって、秦国に医者をお願いした。医者の緩が着かぬうちに、晋候は、病気が二人の童子となって話し合う夢を見た。一人が「緩は名医だから、我らがやられそうだ。どこに逃げたらよいか」と言うと、もう一人が「肓の上、膏の下におれば、どうすることもできまい」と言った。やがて緩が到着すると、「この病気は治すことができません。肓の上、膏の下のところの病気ですから、どんなに治療しても治りません。鍼を用いても届きませんし、薬も通じません。治療できません」と言った。晋候は「名医である」と言って、手厚い礼遇をして帰した。
六月の丙午の日になって、晋候は新麦を食べたくなった。耕作係の役人に麦を献上させ、料理人がそれを調理させた。新麦を食べることができるので、桑田の巫を呼んで、この様子を見せて殺した。いざ食べようとすると、急に腹が張ってきて、厠に行き、落ちて死んでしまった。晋候に仕えていた小役人で、その早朝に晋候を背負って天に登る夢を見た者がいたが、昼になって晋候のしかばねを背負って厠から出したところ、殉死させられた。

故事の概要は以上です。二人の童子が逃げた膏肓の位置は一般に「心下鬲上(心臓の下、横隔膜の上)」と言われています。これは『春秋左氏伝』の注釈書の撰者である賈逵・杜預が「肓」を「鬲」と解釈し、「肓、鬲也。心下為膏(肓とは鬲である。心の下を膏という)」と説明したことに従っています[2]。この膏肓に病邪が居座ったということは、病状が重く、治療も効果がありません。

また、この故事に基づいて「膏肓兪」は命名されましたが、このツボは『甲乙』及び敦煌本『明堂』に記載がありません。もともと『明堂』に「膏肓兪」は無かったと思われます。「膏肓兪」の記載が初めて見られるのは、現存史料では『千金要方』[3]です。巻三十雑病第七に「膏之下、肓之上、針薬所不及、即此穴是也」とあり、このツボが「病膏肓に入る」の場所と言っています。

しかしながら、はたしてこの場所が本当に膏肓の位置なのでしょうか。

膏肓の位置に関する研究

これに関して李鼎の研究があります[4]。李鼎によれば、「膏」の字は「鬲」の字が誤って伝えられたもので、「鬲」は、後の「膈」の字であり、膈膜(横隔膜)を指します。また『説文解字』は「肓、心上鬲下」としています。この解釈によれば、鬲の下が肓で、肓の下に心があります。ここでの「心」とは心窩部を指しており、みぞおちのことで心臓ではありません。『説文解字』がいう「心上鬲下」は、鬲と肓が接合する位置を指しています。肓とは、肓膜のことであり、これは横隔膜の下、腸胃の外側を包む腹膜を指します。肓膜が分布するのは腹内であり、前は臍につらなり、後ろは脊椎の内側に付き、下部は膀胱に及び、上部は膈下に達します。

したがって李鼎の説によれば、「肓の上、膏の下」とは、肓膜の上、膈膜の下で、腹膜と横隔膜の間隙ということになります。

膏肓に関して、もうひとつ紹介したい研究があります。遠藤次郎・鈴木達彦のものです[5]。遠藤・鈴木は、何故に病の化身たる童子が二人なのだろうか、という疑問から、二人ならば童子が隠れる場所も二箇所でもよいはず、と考えました。そして膏肓の位置は二箇所で、膏は横隔膜、肓は臍部の大腹と小腹の境界部(上腹部と下腹部を臍の高さで区切ったライン)という結論に至っています。

上から入ってきた邪と下から入ってきた邪

なぜ童子が二人に関して、遠藤・鈴木は二箇所の場所と考えましたが、私は場所ではなく上から入ってきた邪と下から入ってきた邪と、二つの邪と解釈します。そしてそれら二つの邪が最終的に李鼎のいう「肓の上、膏の下」、すなわち腹膜と横隔膜の間隙で合流した。これが「病膏肓に入る」ではないでしょうか。

『霊枢』百病始生(66)は最初の問答[6]によれば、病は風雨寒暑清湿喜怒から生じると当時考えていました。喜怒不節、感情の変化が調節できないと蔵を損ない、病は内側から起こります。清湿が虚を襲うと病は下から起こり、風雨が虚を襲うと病は上から起こります。感情の変化が病気の原因になること、身体に虚なるところがあり、風雨にあたれば上から邪が入り、清湿にあたれば下から邪が入ることがわかります。

膈兪こそが膏肓

これを先程の故事にあてはめて考えてみます。晋候の夢の中で、幽霊が大門と寝門とを壊してどんどん奥に侵入してきており、晋候は恐怖を感じています。ここから、病邪が侵攻していること、晋候に感情の変化が起きていることがわかります。また病気が二人の童子となっていますが、これが上から入ってきた邪と下から入ってきた邪を表しています。そして二人の童子が「肓の上、膏の下」に逃げていますが、これは上から入った邪が下に侵攻し、下から入った邪が上に侵攻し、最終的に腹膜と横隔膜の間隙で合流したのです。最後、晋候は重症に陥り、いざ食べようとすると、急に腹が張って、厠に行きましたが、これは膈が塞がっているがために、飮食を口にしてもすぐに吐き出してしまう状態だったと解釈できます。まさに膈兪の主治条文の①②の状態だったと考えられます。ちょうど位置的にも、膈兪は「肓の上、膏の下」の位置の背側にあたります。膈兪こそが「病膏肓に入る」の場所に相当するものだったのではないでしょうか。

「病膏肓に入る」に相当するツボは本来「膈兪」であり、「膏肓兪」は誤解に基づいています。『明堂』が書かれた当初は「膏肓兪」の記載はありませんでした。そもそも治らないからというのもあるかとは思いますが、「病膏肓に入る」の場所に相当するものとして「膈兪」があったからとも考えられます。「病膏肓に入る」の由来となった病の逃げ込んだところである「肓の上、膏の下」は本来、腹膜と横隔膜の間隙を指しており、その背側に位置するのが「膈兪」です。しかし、「肓の上、膏の下」の指す場所が誤って伝わってしまい、心臓の下、横隔膜の上になってしまいました。この解釈に基づいて新たに設けられたツボが「膏肓兪」です。

こんな風に当時考えていたんじゃないかなーという解釈をしてもいいんじゃないかなーというお話でした。

[1]『春秋左氏伝』成公十年(新釈漢文大系31参考)
晋侯夢、大厲被髮及地、搏膺而踊曰、殺余孫不義。余得請於帝矣。壊大門及寝門而入公懼入于室。又壊戸。公覚、召桑田巫。巫言如夢。公曰、何如。曰、不食新矣。公疾病、求医于秦。秦伯使医緩為之。未至。公夢、疾為二豎子曰、彼良医也。懼傷我。焉逃之。其一曰、居肓之上、膏之下、若我何。醫至。曰、疾不可為也。在肓之上、膏之下。攻之不可、達之不及、薬不至焉。不可為也。公曰、良医也。厚為之礼而帰之。六月丙午、晋侯欲麦。使甸人献麦、饋人為之。召桑田巫、示而殺之。将食。張。如廁。陷而卒。小臣有晨夢負公以登天。及日中、負晋侯出諸廁、遂以為殉。

[2] 清代の段玉裁は『説文解字注』四篇下 肉部において、「肓、心下鬲上也」としています。賈逵・杜預の注「肓、鬲也。心下為膏」に合うように、もともとの『説文解字』では「肓、心上鬲下」とあったのを、「鬲上肓、肓上膏、膏上心、今本作心上鬲下則不可通矣」として、「肓、心下鬲上」と改変しています。

『説文解字注』四篇下 肉部 肓 ※()内は割注
心下鬲上也。(下、上各本互訛。篇、韻同。今依左伝音義正。左伝、疾不可為也。在肓之上、膏之下。賈逵、杜預皆曰、肓、鬲也。心下為膏。按鄭駁異義云、肺也、心也、肝也俱在鬲上。賈侍中說肓、鬲也。統言之。許云鬲上為肓者、析言之。鬲上肓、肓上膏、膏上心。今本作心上鬲下則不可通矣。素問曰、肓之原在齊下。釋名曰、膈、塞也。塞上下、使気與榖不相乱也。)從肉亡聲。(呼光切。十部。按當云網平聲。)春秋伝曰、病在肓之上。(左伝成十年文。各本上訛下、今正。)

[3]『千金』巻三十雑病第七
膏肓輸無所不治。主羸痩虚損、夢中失精、上気欬逆、狂惑忘誤。取穴法、令人正坐曲脊申両手、以臂著膝前令正直、手大指与膝頭斉、以物支肘、勿令臂得動揺、從胛骨上角摸索至胛骨下頭、其間當有四肋三間、灸中間、依胛骨之裏肋間空、去胛骨容側指許、摩𦛗肉之表肋間空処、按之自覚牽引胸戸中。灸両胛中各一処、至六百壮、多至千壮。當覚気下礱礱然如流水状、亦當有所下処、若無停痰宿疾則無所下也。若病人已困不能正坐、當令側臥、挽上臂、令前求取穴灸之也。求穴大較以右手從右肩上住指頭表所不及者是也、左手亦然、乃以前法灸之。若不能久正坐當伸両臂者、亦可伏衣襆上伸両臂、令人挽両胛骨使相離、不爾胛骨覆、穴不可得也。所伏衣襆當令大小常定、不爾則失其穴也。 此灸訖後、令人陽気康盛、當消息以自補養、取身体平復。其穴近第五椎相準望取之。
論曰、夫昔秦緩不救晋侯之疾、以其在膏之下肓之上、針薬所不及、即此穴是也。時人拙、不能求得此穴、所以宿痾難遣。若能用心方便、求得灸之、無疾不愈矣。

[4] 李鼎「問76:「膏肓」という名の変遷と、この経穴の名前の意味は何か」李鼎著 浅田周訳『鍼灸学釈難』pp155-159 源草社 2000年
李鼎「何以“膏肓”一误再误?——“鬲(膈)贲”“荒、肓”“幕、膜”各字音义判析」李鼎主編『循经考穴五十年』pp88-96 上海浦江教育出版社 2013年 原載『中医药文化』2008年第2期

[5] 遠藤次郎・鈴木達彦「膏肓の病の意義」『漢方の臨床』第59巻第2号 pp13-26 2012年

[6]『霊枢』百病始生(66)の最初の問答
黄帝問于岐伯曰、夫百病之始生也、皆生于風雨寒暑清湿喜怒
喜怒不節則傷蔵、風雨則傷上、清湿則傷下
三部之気、所傷異類。願聞其会。
岐伯曰、三部之気.各不同、或起於陰、或起於陽。請言其方。
喜怒不節則傷蔵、蔵傷則病起於陰也
清湿襲虚、則病起於下
風雨襲虚、則病起於上
是謂三部。至於其淫泆、不可勝数。

以上の内容は、ただの趣味です。学者としての訓練・教育・指導等は受けてはいませんので、多々誤りはあるかと思いますが、どうぞお付き合いください。誤り等ご指摘いただければ幸いです。

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